発達障害を持つ子どもにおける,「文章読解能力」と「空気を読む力」の関連

分からない英文なんか訳していると,人間が文章を読む際の,「予測すること」の重要性を強く認識する。こういうのは認知心理学あたりの分野で議論し尽くされているのだろうけど,我々は文章を読む際,まず読んで事後的に意味を判断しているのではなく,予測ながら読み進めていき,分からない場合のみ,事後的に意味を判断している。

恐らくそれは樹形図のようなモデルを持っているのだろう。ある単語が出てくれば,そこに続くのは恐らくこの辺の単語だろうというのがいくつか想像され,実際に出てきた単語がそれに当てはまればすっと読めるし,想像外の単語が出てくれば立ち止まる。最近の携帯電話にはそういう機能がついているが,あれは我々の文章読解能力を考えるとき,相当近い構造を持っているのでないかと思う。

この予測には2つのレベルがあって,恐らくそれは文法レベルと,全体の意味内容レベルなんだろう。先ほど少し書いたように,この単語が出てくれば多分次はこれというのは,文法レベルでは名詞のあとは助詞だとか,日本語であれば動詞が出てくれば述語の可能性が高いとかそういうことだろうが,同時に,文章を読み進めていく中で,大体このへんのカテゴリーの単語が使われるだろうという予測が我々の中にはあって,その範囲内であれば,ある程度理解しながら読み進めていけるのだろうと思う。

例えば本文の一行目,

>分からない英文なんか訳していると,人間が文章を読む際の,「想像すること」の重要性を強く認識する。

一番最初のまとまり,「分からない英文なんか訳していると」はつまり,筆者が英語を訳しているときの話で,その英文が難しかったときの話。これがもし,「分からない英文なんか食べていると」などと書いてあると,途端に面食らい,「このあとどうまとめるのだろう」と思うか,「頭のおかしい人が書いた文章だから読むのをやめよう」と思うかもしれない。

この1行目の肝は「予測すること」という単語にあり,そのことは,これが括弧でくくられていることからも想像できる。文章を読むとき,人は予測しているということを,すっと理解できる人もいれば,「いや別に予測とかしてないよ?」と思う人もいるかもしれない。ただ次の瞬間,「ああ,もしかしたら文章を読むとき,結構予測とかしているかもしれない」と思ってもらえれば書き出しとしては成功で,そこから先の興味につなげることができる。

また,文体がですます調でないこと,「認識」といった少し難しい単語を使いつつ,「分からない英文なんか」と,論文では許されないような表現も用いていること,英語を訳すという,多くの人間にとって日常的とは言えない行為について触れていることなど,たった1文から得られる情報は数多い。文章読解,あるいは会話という,我々にとってごく当たり前の行為であっても,よく考えてみれば,非常に複雑で膨大な情報が処理されていることに気付き,人間の能力のすごさに恐れ入る。

発達障害の子どもなどにおいては,この能力が劣っている場合があり,そういう子どもにとっては,特に文章の区きりが理解できないそうだ。僕が見ている子どもの例で言うと,さっきの一文であれば,まず主語,述語が分からない。それと,学校などで習ったと思うが,「ね」を入れることによって分かる文章の切れ目,

分からないネ,英文なんかネ,訳しているとネ,人間がネ,文章をネ,読む際のネ,「想像すること」のネ,重要性をネ,強くネ,認識するネ。

が理解できないので,例えば「分からない英文」でまず切れてこれはなんとか理解できても,次は「なんか訳していると」となるので,文章の理解は我々に比べてはるかに難解になる。

予測ができないというのはなかなかに不便なもので,つまりこうすればこうなるだろうということが分からない。こういうことが分からないとどうなるかというと,空気が読めないということになる。空気を読むというのは近年流行っている言葉だが,これはフッサールの言う間主観性のことだとみていいだろう。この場合空気というのは複数の人間が作り出す何かである。1人きりでいれば空気を読む必要はない。2人になると,そこには2つの主観が存在することになり,その関係性への考慮が求められる。主観間の関係性がつまり間主観性である。これは勿論,人数が増えるのと比例して難しくなる。

僕の見ている子どもに限った例で言えば,予測力という能力に劣っていることが,文章読解と空気を読む能力の発達の妨げとなっている。勿論他にもいくつかあるだろう。ただ,彼に対する支援を考えるとき,空気が読める人間になってほしければ,本を沢山読ませるという選択肢があるのかもしれない。

ここは少し理論が飛躍するが,つまり,予測力と,文章読解力,空気を読む能力の間に,相関関係だけでなく因果関係があるとすれば,逆に,文章読解能力を鍛えることで予測力や空気を読む能力が発達するという可能性もあるということだ。発達障害の子どもへの支援において,あらゆる可能性を試してみるという作業の中で,僕は少しこの可能性に期待している。彼が本を読む姿はあまりにも苦痛であるように見えるので,つい「もういいよ」と本を取り上げてしまいそうになるが,心を鬼にしてでもある程度の文章を読ませる訓練が必要なのかもしれない。

なぜならば,現代ほど,空気を読む能力を要求される時代はないからだ。彼は非常に心優しく,一緒にいる僕を癒してくれる存在であるが,明らかに空気は読めない。そのことが彼のこれからの人生に暗い影を落とす可能性を否定することはできない。なんとか空気が読める人間になってほしい。そのために彼に本を読んでもらおうと思う。多分,折角現代に生きている以上,本という媒体にこだわる必要はない。携帯でもネットでもいいかもしれないし,漫画から入るのもいいだろう。アニメやドラマであると少し効果が落ちることは容易に予測される。とにかく文章を読ませること。これが,今僕が彼にしてあげられることのひとつである。